俳句結社 雨月
ご挨拶
雨月主宰大橋一弘と申します。令和3年に主宰代行、令和5年に主宰を引き受けました。
父母伯母より手ほどきを受け、幼少時から俳句に親しんで参りましたが、大学では臨床心理を学び、心理臨床・教育人間の分野で大学で講ずる一方、展覧会歴12回を数えるモノクロ作品を主体とした写真作家活動、そして「雨月」誌上にて「ファインダーからの眺め」と題するモノクロ写真と随筆を平成9年より連載して参りました。
カメラという道具の特異性は、意識するかせぬかの刹那にシャッターを切ることができ、曖昧な認識の断片、暗黙の経験を拾い上げ凝り固まった先入見を越えさせてくれる点にあるのではないかと考えてきました。
俳句も同様に、曖昧な認識の断片を身体に根ざした言の葉の響きにに乗せる手法ではないかとも思います。
振り返って櫻坡子の言う「小主観を抑える」とは、億見に塗れた見方から離脱することとも言え、そこにこそ軽み、俳味も自ずと現れるように思います。見ることの根源に於いて見る態度とでも言えるでしょうか。そこには己の経験の根源、各人の謂わば「業」と、一方で文化的普遍性や、人としての普遍性が現れもするでしょう。そう考えれば、季語という文化が現れるのも日本人にとっては必然とも思え、韻律、音韻の重要性もそこにあるのでしょう。リズムや音は身体に根ざした念の根源ですから。
先日、ある方の句集の序文を依頼されて、冒頭に概ね次のようなことを記しました。「何らかの作品は遍く己の来し方への祀りであり、行く末への祈りである。本句集も亡き妻への挽歌であり、御自身の来し方行く末への祀りであり生きた証である。御自身のルーツを辿る旅であり抱えた業を祀る作業でもある。人は誰しも己の業を抱え、祀り、祈り、生きて行くのだろう。」
芸術表現とは扱い難い感情や、扱われずに来た「業」を見据える作業、つまり、怒りと哀しみを祀り、自身がそこに至る諸縁を一つひとつ解きほぐして対象化し、引き受けて行く作業とも言えるでしょう。言い換えるならば、芸術とは亡き者を祀る作業であり、人が「生きる」ためにこそあるのです。
巡る季節の中、とるに足らぬような小さき欠片を、しかし二度と訪れぬ欠片を積み重ねて日々は続きます。その小さな欠片を拾い集めるかの俳句という行為は、日々溜まり行く澱を祀るのです。殊更に声高に感情を語らずとも、ただそこにあった小さな欠片を写し取ってゆく、これも客観写生の一つの意味でしょう。
透徹した客観描写は、観る者の、ひいては人間普遍の姿を映し出します。芭蕉の「松のことは松に習へ」という言葉、そして、敦子の唱えた「主格合一」はそういうことではないかと考えています。
沿革
「雨月」は令和6年に創刊75周年、通巻900号を迎えた。虚子の弟子であった大橋櫻坡子により昭和24年4月に創刊。翌年定年退職した櫻坡子は句作に専念。虚子に傾倒した櫻坡子は「虚子の芸は自然をありのままに映し、自己の小主観を抑え(中略)鍛錬を重ねたところの芸であって、一つの芸の極致である。」と理念を掲げた。昭和46年の櫻坡子の没後、大橋敦子が雨月を継承。敦子は「主格合一」を掲げ、NHK俳壇、角川書店「俳句」平成俳壇等の選者を歴任。昭和56年、句集『勾玉』で現代俳句女流賞受賞。「雨月会」は平成6年大阪府知事より大阪文化奨励賞を受けた。平成16年、大橋麻沙子副主宰就任。平成18年、副主宰麻沙子死去。同年大橋晄副主宰就任。平成22年、晄主宰就任。令和5年、晄が名誉主宰に退き、大橋一弘主宰就任。